芸術の星、海王星
海王星については1/19日に書かせていただきましたが、
もう一つ海王星が司っているのは芸術です。
そこで前回海王星が魚座にいた時代(1847〜1862)の芸術について、
美術館の学芸員の方にお話を伺いました。
許可を得て、いただいた内容を掲載させていただきます。
私も印象派の時代は一番興味を持っていたので、とても勉強になりました。
そしてこれからの海王星時代にどんな芸術が花開くのか、とても楽しみです!
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1847年〜1862年はちょうど、印象派の揺籃期・準備期というかんじで、それまでのアカデミックな美術の枠のなかで新しいことをするのではなく、その枠組み自体を変えていくような動きが明確にでてきた時期、といえるかと思います。
それまでの美術では、画題に明確なヒエラルキーがあって、
1番が「歴史画」といわれる神話や歴史や宗教を描いたもの、
2番が肖像画、
3番以下が風俗画、風景画、静物画でした。
つまり、絵画というものは、神話や聖書の高潔な人物が主役で、何か教訓的・啓蒙的な意味を伝えなければいけないと考えられてきたのですが、ちょうど1840年代後半〜50年代は、日本でも有名なミレーが農民画・風俗画を描いて名声を得るなど、それまでのアカデミックな方向性と異なるものが出てきて、評価もされるようになった時期にあたると思います。
その時期のちょうど最終段階に当たる1862〜63年に、エドゥアール・マネという画家が、《草上の朝食》(オルセー美術館)という絵を描いて、1863年にサロン(官展)に出品して酷評されます。
なぜ酷評されたかというと、この絵のなかで、マネは自分と同時代の人たちをモティーフにして、しかも裸体で描いたからです。
それまでの美術の枠組みでは、テーマは神話や歴史、つまり過去の出来事でなければならず、その前提があって初めて、裸体が描けました。
ですから、マネのやったことは本当に革新的で、普通の批評家には酷評されたわけですが、一方で、新しい感性をもった批評家の目を育てたり、のちに印象派の中核となる画家たちにも本質的な影響を与えました。(マネ自身は自分を「印象派」と称したことはなかったのですが)、マネの6つ年下のモネほか、印象派の画家たちからずっと尊敬され、手本とされることになりました。